はじめに:「木を見て森も見る」理学療法 – なぜ全体像の把握が重要なのか?
「患者さんの身体機能は改善してきたけれど、なかなか自宅退院に繋がらない…」
「リハビリは順調なのに、なぜか患者さんの表情が晴れない…」
理学療法士として臨床に携わっていると、単に身体機能の回復だけでは解決できない問題に直面することがあります。
2019年当時、私は「理学療法ジャーナル」の特集をきっかけに、患者さんをより包括的に捉える「バイオサイコソーシャルアプローチ(生物心理社会モデル)」の重要性を再認識しました。
この記事では、当時の私の学びを元に、
バイオサイコソーシャルモデルとは何か、そしてそれが理学療法士の臨床においてどのように活かされ、患者さんの「真のQOL(生活の質)向上」にどう繋がるのかについて、2025年の視点から情報をアップデートし、具体的な関わり方と共に深掘りしていきます。
1. バイオサイコソーシャルモデルとは? – 人を多角的に理解する視点
バイオサイコソーシャルモデル(Biopsychosocial Model)とは、疾病や健康状態を、単に生物学的な側面(Bio)だけでなく、心理的な側面(Psycho)、そして社会的・環境的な側面(Social)が相互に影響し合う統合された存在として捉える考え方です。
- 生物学的側面 (Bio): 身体構造(骨、関節、筋肉、神経など)、生理機能(循環、呼吸、代謝など)、遺伝的要因、病理学的変化(炎症、変性など)を指します。
- 心理的側面 (Psycho): 感情(不安、抑うつ、喜びなど)、認知(考え方、信念、記憶、注意)、行動様式、性格、コーピングスタイル(ストレス対処法)、自己効力感などを指します。
- 社会的側面 (Social): 家族構成やサポート体制、住環境、経済状況、職業、文化背景、社会的役割、利用可能な社会資源、医療・福祉制度などを指します。
私たち理学療法士にとって馴染み深いICF(International Classification of Functioning, Disability and Health:国際生活機能分類)も、このバイオサイコソーシャルモデルを基盤として構築されています。ICFが「心身機能・身体構造」「活動」「参加」という生活機能の構成要素と、「環境因子」「個人因子」という背景因子を相互に関連付けて捉えるのは、まさにこのモデルの考え方を反映しています。
2019年当時の記事で「バイオサイコソーシャルアプローチというワード自体はそれほど普段きくことはありませんが、普段の臨床の中でも、症例の運動機能だけでなく、心理面、社会性、環境要因など様々な要素を踏まえて、治療的アプローチ・適応的アプローチを行っております」と書きましたが、
まさに多くの理学療法士が、意識的・無意識的にこの視点を持って臨床にあたっているのではないでしょうか。
2. なぜ理学療法士にバイオサイコソーシャルモデルが必要なのか?
理学療法士の仕事は、単に「関節の角度を改善する」「筋力をつける」といった身体機能の回復だけを目指すものではありません。
その先にある「患者さんがその人らしい生活を送れるようになること」「社会参加を実現すること」こそが、私たちの最終的な目標です。
そのためには、
- 患者さんの痛みや機能障害が、その方の心理状態(例:痛みへの恐怖、将来への不安)にどのような影響を与えているのか?
- 社会的環境(例:家族の介護力、住まいのバリア、経済的な問題)が、リハビリテーションの進行や退院後の生活にどう関わってくるのか?
- 患者さん自身の価値観や人生の目標は何か?
といった、生物学的側面以外の要素を深く理解し、アプローチに組み込むことが不可欠です。
バイオサイコソーシャルモデルは、このような「患者さんの全体像」を捉え、より個別化され、効果的なリハビリテーションを提供する上での強力な羅針盤となります。
3. 治療的アプローチと適応的アプローチ:バイオサイコソーシャルモデルに基づいた関わり方
理学療法のアプローチは、大きく「治療的アプローチ」と「適応的アプローチ」に分けられます。
バイオサイコソーシャルモデルの視点は、これらのアプローチを効果的に組み合わせ、患者さんの状態や時期に応じて使い分ける上で非常に重要です。
- 治療的アプローチ (Therapeutic Approach):
- 目的: 損傷した身体機能や構造の回復・改善を目指す。
- 具体例: 関節可動域訓練、筋力増強訓練、疼痛緩和のための徒手療法や物理療法、歩行訓練など。
- バイオサイコソーシャルモデルの視点:
- 患者さんの心理状態(例:痛みへの恐怖心が強い場合は、リラクセーションや認知行動療法的アプローチを併用する)を考慮する。
- 社会的背景(例:早期の職場復帰を目指している場合は、それに特化した運動プログラムを組む)を念頭に置く。
- 適応的アプローチ (Adaptive Approach):
- 目的: 残存する機能障害があっても、それを補う方法や環境調整によって、日常生活動作(ADL)や社会参加を最大限に高めることを目指す。
- 具体例: 代償動作の指導、福祉用具(杖、装具、車椅子など)の選定・適合、住宅改修のアドバイス、家族への介助方法指導、社会資源の紹介など。
- バイオサイコソーシャルモデルの視点:
- 患者さんの心理的受容(例:杖を使うことへの抵抗感)に寄り添い、その必要性を丁寧に説明する。
- 社会的資源(例:介護保険サービス、地域のサポートグループ)を積極的に活用し、退院後の生活を支える体制を整える。
入院初期は、身体機能の回復を目指す「治療的アプローチ」が中心となることが多いですが、リハビリテーションの進行とともに、退院後の生活を見据えた「適応的アプローチ」の比重を徐々に高めていく必要があります。
この移行をスムーズに行うためには、患者さんの身体機能だけでなく、心理状態、家族構成、住環境、経済状況、価値観といった多岐にわたる情報を早期から収集し、多職種(医師、看護師、作業療法士、ソーシャルワーカーなど)と密に連携を取りながら、患者中心のアプローチ(Patient-Centered Approach)を実践していくことが不可欠です。
4. 患者中心アプローチ:バイオサイコソーシャルモデルを臨床で活かす鍵
「患者中心アプローチ」とは、患者さんを単なる「治療の対象」としてではなく、一人の人間として尊重し、その人の価値観、希望、生活背景を理解した上で、治療目標や治療計画を共に決定していく関わり方です。
これは、バイオサイコソーシャルモデルを臨床で具体的に実践するための鍵となる考え方と言えるでしょう。
患者中心アプローチを実践するためのポイント:
- 傾聴と共感: 患者さんの話に真摯に耳を傾け、その思いや感情に寄り添う。
- 情報共有と共同意思決定: 評価結果や治療の選択肢について分かりやすく説明し、患者さんの意向を確認しながら、共に治療方針を決定していく。
- エンパワーメント: 患者さん自身が自分の状態を理解し、治療に主体的に参加できるよう、自己効力感を高める支援を行う。
- 個別性の尊重: 画一的なリハビリテーションではなく、患者さん一人ひとりのニーズや目標に合わせたオーダーメイドのプログラムを提供する。
2019年の記事で「リハビリテーション医療における理学療法士の職業的役割としては、バイオサイコソーシャルアプローチ、および患者中心アプローチの視点に立ち機能を回復への治療的アプローチと能力回復のための適応的アプローチを、病気における患者の病を踏まえ、駆使することが求められる」とまとめられていましたが、まさにこの点が、理学療法士の専門性を発揮する上で最も重要な核心部分です。
5. 全体像を把握することの難しさと、その先にあるもの
バイオサイコソーシャルモデルに基づいて患者さんの「全体像」を把握しようとすることは、非常に複雑で、時に困難を伴います。
収集すべき情報は多岐にわたり、それぞれの要素がどのように影響し合っているのかを分析するには、深い洞察力と経験が必要です。
しかし、この「全体像の把握」に努めることで、
- より本質的な問題点が見えてくる。
- 画一的ではない、個別性の高いアプローチが可能になる。
- 患者さんの真のニーズに応えることができる。
- 理学療法士としての専門性と人間性が深まる。
といった、大きなメリットが得られます。
2019年の記事で「普段やっていることを言語化する(無意識から意識レベルへ)ことにもつながるため、たいへん参考になりました」とありましたが、バイオサイコソーシャルモデルというフレームワークを持つことで、日々の臨床での無意識的な配慮や工夫が、より意識的で体系的なアプローチへと昇華されるのです。
まとめ:「全体像」を捉える視点が、理学療法の未来を拓く
変形性股関節症に限らず、あらゆる疾患や状態の患者さんに対して、バイオサイコソーシャルモデルに基づいた「全体像の把握」と「患者中心のアプローチ」を実践することは、理学療法士にとってますます重要になっています。
それは、単に身体機能を改善するだけでなく、患者さんがその人らしい、より豊かな生活を送るためのお手伝いをするという、私たちの専門職としての本質的な役割を果たすことに繋がります。
日々の臨床で、「この患者さんの痛みは、身体的な問題だけでなく、心理的な不安や社会的な孤立も影響しているのではないか?」「このADLの困難さは、住環境を少し工夫すれば改善できるのではないか?」といった視点を常に持ち続けること。
そして、その気づきを具体的なアプローチに繋げていくこと。
この積み重ねが、私たち理学療法士の専門性を高め、患者さんからの信頼を深め、そして理学療法という専門職の未来をより明るいものにしていくと信じています。