はじめに
股関節は人体で最も大きな関節の一つであり、歩行や走行、起立・着座など、日常生活の基本的な動作において中心的な役割を担っています。股関節の機能や安定性には、骨の形態、特に大腿骨の捻れ具合である「前捻角(ぜんねんかく)」が大きく関与しています。
この記事では、理学療法士やその他の医療従事者、あるいは自身の体の状態に関心のある方々に向けて、股関節の前捻角について、その定義から評価方法、臨床的な意義、そして関連する病態までを掘り下げて解説します。
2017年の記事内容を基に、より詳細な情報と最新の知見(基本的な概念は不変ですが、臨床的な関連性の理解は深まっています)を加えてアップデートしました。
前捻角とは?
定義: 前捻角(Femoral Anteversion Angle)とは、大腿骨の骨幹部(体部)に対する大腿骨頚部の前方への捻れの角度を指します。具体的には、大腿骨頚部の軸(大腿骨頭の中心と頚部の中心を結ぶ線)と、大腿骨顆間軸(大腿骨遠位端の後面にある内側顆と外側顆の最も突出した後縁を結ぶ線、またはそれに平行な線)が、水平面(体を上から見た面)上でなす角度として定義されます。
正常値と発達: 前捻角は年齢と共に変化します。
- 新生児: 約30~40度と非常に大きな前捻角を持っています。これは胎内での肢位に関連すると考えられています。
- 小児期: 成長に伴い、骨の捻れは徐々に減少していきます。
- 成人: 一般的に約10~15度が正常範囲とされます。(文献によっては8~15度、あるいは10~20度を正常範囲とするものもあります)。性差については、女性の方がやや大きい傾向があるという報告もありますが、個体差が大きいです。
用語の整理:
- 過度前捻 (Excessive Anteversion): 正常範囲よりも前捻角が大きい状態(例:20度以上)。
- 後捻 (Retroversion): 前捻角が正常範囲よりも小さい、あるいはマイナスの値(頚部が顆間軸に対して後方に捻れている)状態(例:5度未満)。
前捻角の臨床的意義
前捻角の異常は、股関節の適合性、可動域、安定性に影響を与え、さらには下肢全体の運動連鎖を通じて膝関節や足部にも問題を引き起こす可能性があります。
1. 過度前捻の場合:
- 股関節の適合性と安定性: 大腿骨頭が寛骨臼に対して相対的に前方に位置しやすくなります。これにより、特に股関節伸展・外旋位で前方の被覆が減少し、不安定性を生じたり、前方組織へのストレスが増加したりする可能性があります。
- 代償的なアライメント変化:
- 股関節内旋位: 適合性を高めるために、無意識的に股関節を内旋位にする傾向があります(大腿骨頭を臼蓋の中心に収めようとする)。
- 内股歩行 (In-toeing Gait): 股関節の内旋に伴い、つま先が内側を向く歩行パターンが見られます。
- 可動域の変化: 股関節の内旋可動域が増加し、外旋可動域が減少します。
- 運動連鎖による影響:
- 股関節の内旋を代償するために、下腿が外旋(脛骨外捻)することがあります。
- 下腿の外旋は、膝関節において外反ストレス(X脚様のアライメント)を増加させる可能性があります。
- 足部では、代償的な回内(扁平足傾向)が見られることもあります。
- 関連する可能性のある病態: 膝蓋骨不安定症、膝蓋大腿関節痛症候群(PFPS)、腸脛靭帯炎、股関節唇損傷、変形性股関節症(将来的なリスク因子の一つとして)。
2. 後捻の場合:
- 股関節の適合性と安定性: 大腿骨頭が寛骨臼に対して相対的に後方に位置しやすくなります。
- 代償的なアライメント変化:
- 股関節外旋位: 適合性を高めるために股関節を外旋位にする傾向があります。
- 外股歩行 (Out-toeing Gait): つま先が外側を向く歩行パターンが見られます。
- 可動域の変化: 股関節の外旋可動域が増加し、内旋可動域が減少します。特に内旋制限が顕著になることがあります。
- 関連する可能性のある病態: 股関節インピンジメント(特に後方)、変形性股関節症、梨状筋症候群(外旋筋群へのストレス増加)。
前捻角の評価方法
前捻角を正確に測定するには画像検査が必要ですが、臨床現場では徒手的な評価も行われます。
1. 画像検査 (Gold Standard):
- CT (Computed Tomography): 最も正確に前捻角を測定できる方法です。大腿骨頚部を通過するスライスと、大腿骨顆部を通過するスライスを重ね合わせ、それぞれの軸のなす角度を計測します。被曝の問題があります。
- MRI (Magnetic Resonance Imaging): CTと同様に軸位断を用いて測定できます。被曝はありませんが、コストや検査時間がかかります。
2. 臨床的な評価 (Clinical Examination):
画像検査が常に利用できるわけではないため、臨床では以下の方法で前捻角を推定します。ただし、これらの方法は皮下脂肪の厚さや筋の柔軟性、検者の技術によって誤差が生じやすく、あくまで推定であることに注意が必要です。
- Craig’s Test (Ryder’s Method):クレイグテスト
- 肢位: 患者は腹臥位(うつ伏せ)になり、評価したい側の膝を90度屈曲させます。
- 手技: 検者は片方の手で大転子(股関節の外側にある骨の隆起)を触診し、もう片方の手で下腿を持ち股関節を内外旋させます。大転子が最も外側に突出し、地面と平行になったと感じる位置を探します。
- 測定: その位置での下腿(脛骨)と床への垂直線とのなす角度を計測します。この角度が前捻角の推定値となります。一般的に、この角度が15度以上であれば過度前捻、8度未満であれば後捻の可能性が示唆されます。
- 股関節回旋可動域の評価:
- 肢位: 腹臥位で膝90度屈曲、または背臥位(仰向け)で股関節・膝関節90度屈曲位。
- 評価: 骨盤が動かないように固定し、他動的に股関節の内旋および外旋の最大可動域を測定します。
- 解釈:
- 過度前捻の示唆: 内旋可動域 > 外旋可動域 (例:内旋60度以上、外旋30度未満)
- 後捻の示唆: 外旋可動域 > 内旋可動域 (例:内旋20度未満、外旋45度以上)
- ※可動域は関節包や筋肉の柔軟性にも影響されるため、これだけで断定はできません。
- 歩行観察:
- 内股歩行(In-toeing)か外股歩行(Out-toeing)かを確認します。足部の角度だけでなく、膝の向き(Patellar Squinting: 膝蓋骨が内側を向くなど)も観察します。
- 立位姿勢の観察:
- リラックスした立位での足先の向き、膝の向き、股関節の自然な回旋角度を観察します。
マネジメントに関する考慮事項
前捻角の異常が見つかった場合、その対応は症状の有無、重症度、機能的な制限の程度によって異なります。角度の異常=即治療ではありません。
- 保存療法:
- 経過観察: 特に小児の場合、成長に伴い自然に改善することが多いため、重度の機能障害がなければ経過観察が第一選択となることがあります。
- 理学療法:
- ストレッチング: 制限されている方向(過度前捻なら外旋、後捻なら内旋)への可動域改善を目指したストレッチング。ただし、骨性の問題であるため、過度なストレッチは逆効果になることもあり、注意が必要です。関連する筋(例:内転筋群、ハムストリングス、外旋筋群)の柔軟性改善が中心となることもあります。
- 筋力強化: 股関節周囲の筋(特に外転筋、伸展筋、外旋筋)を強化し、動的な安定性を高めます。
- 動作指導・歩行訓練: 代償動作を修正し、効率的な動作パターンを再学習させます(例:内股歩行の修正)。
- 装具療法: 足底板(インソール)を用いて足部のアライメントを調整し、下肢全体の運動連鎖にアプローチすることがあります。
- 外科的療法:
- 大腿骨骨切り術 (Femoral Derotational Osteotomy): 保存療法で改善が見られず、重度の機能障害(著しい歩行異常、繰り返す痛みや不安定性など)がある場合に検討されることがあります。大腿骨の骨幹部で骨を切り、捻れを矯正して固定する手術です。適応は慎重に判断されます。
まとめ
前捻角は、股関節の形態的特徴の一つであり、その角度は股関節の機能、下肢アライメント、さらには歩行パターンにまで影響を及ぼします。過度な前捻や後捻は、様々な代償運動や機能障害、痛みの原因となり得ます。
臨床においては、CTやMRIによる正確な測定が理想ですが、Craig’s testや股関節回旋可動域測定、歩行・姿勢観察といった臨床評価を通じて前捻角異常の可能性を推測することが重要です。股関節や膝、足部の問題を評価する際には、単に関節単体を見るだけでなく、前捻角を含む下肢全体の運動連鎖を考慮に入れることで、より本質的な原因に迫り、効果的な治療アプローチを選択することが可能になります。
この記事が、皆様の臨床推論やアセスメントの一助となれば幸いです。